覚書・2022年下半期──「ASMR的聴取の詩学」の可能性

◆SukeraSono:【終末百合音声】イルミラージュ・ソーダ 〜終わる世界と夏の夢〜【CV:奥野香耶

 私にとって本作は、音楽/音声/音響を“聴取する”という行為そのものについて考えさせられた稀有な作品である。最初の数回はASMR聴取に特化した有線イヤホンで聴き通していたが、以降は有線無線を問わない手持ちの全てのイヤホンやヘッドホン、さらにスピーカーまで、できる限り様々な環境での聴取を試みるようになった。かの世界における実存を複層的に定位するかのように繰り返した聴取体験は、やがて私自身の聴取感覚にも変容をもたらした。本作を通して得た“ASMR的聴取”の直観については整理・検討の後、来年以降に何らかの形で公開したいと思っている。

 本作を体験するにあたり、本年7月刊行の『談 no.124』に掲載された音響人類学者:山田陽一のインタビューが大きな補助線となった。全編を通して示唆に富む内容だったが、本作を味わううえで特に参考となった一節を引用する。

大切なのは、音楽を「聴くこと」は決して受動的な行為ではない、ということです。「聴くこと」は「音楽に参加すること」であり、「聴くこと」によって私たちは音楽とつながることができます。すなわち、「聴く」という経験は、音楽に主体的に触れることであり、自分の身体の中に音楽を含み込むことでもあります。*1

 また、同インタビュー内で言及された現象学者:ミケル・デュフレンヌの言葉も印象的だった。孫引きとなり恐縮だが、以下に記しておく。

音を出すものは、私が差し出すこの反響箱の中に侵入して、私のもっとも深いくぼみの中で鳴り響く。だが同時に、音を出すものが私の中に侵入してきたときに消えてしまうわけではないのだから、それは私を包囲し……ときにはその音源を識別できないほどになる。すると、それが私の中で鳴り響くのと同様に、私もその中で鳴り響き振動する。*2

 聴取という行為のフィールドにおいて、「音楽に参加する」という姿勢は音声/音響作品にも応用可能なものだ。むしろ聴取者に一定のロールを与え、シナリオという軌道を敷くタイプのASMR音声作品は、そもそもが聴取者の主体的な参加を前提にしているとも言える。作中における一人称を主体的に“演じる”ことに始まり、やがて音響そのものを共に構成し“奏でる”ことに転じていく――ASMR音声作品というメディアを介して、音響空間を総体的な“Play”の場として捉える“ASMR的聴取の詩学”が萌芽する。

 本年7月にDLsiteに投稿したレビューでは本作を「比類なき鑑賞体験」と評したが、「身体と音響の相互浸透とも呼べる領域にまで迫る、比類なき参加体験」と改めたい。販売プラットフォームの特性上、いわゆる音楽ファンにまで届く機会が限られていることが惜しまれるが、本記事から興味をもたれた方には是非体感していただきたい。

 以下は、本年にリリースされた作品のうち『イルミラージュ・ソーダ』以降の聴取感覚と特に相性がよく、個人的に繰り返し聴くことになったものである。読者の方々が“ASMR的聴取”という未成熟なタームの輪郭を捉えるうえで、以下のリストが何らかの手掛かりとなることを祈り、まずは作品情報を列挙するに留めておく。

 

◆quoree:煤模型

 

◆lyqjw:存在しない

 

◆ウ山あまね:ムームート

 

◆松本一哉:無常

 

 

※補記:2023年11月11日(土)開催「文学フリマ東京37」にて販売開始される音楽評論アンソロジー『ferne ZWEI』に、「ここがどこかでありますように――『イルミラージュ・ソーダ』から探る〈セカイ系〉的聴取論」と題した論考を寄稿した。北出氏からいただいた〈セカイ系〉というキーワードを補助線としたことで、本記事の執筆時点では未だその輪郭を掴みかねていた直観も、ようやく判然としてきたように思われる。文学フリマでの販売後にはBOOTH・AVYSS shop等にも入荷予定とのことで、ぜひお手に取っていただけると幸いである。

 

 

*1 「「声のきめ」を聴く……グルーヴのなかへ」『談 no.124』水曜社、2022年、12頁

*2 ミケル・デュフレンヌ『眼と耳──見えるものと聞こえるものの現象学』桟優訳、みすず書房、1995年、112頁